日々は続く。

元サブカルクソ女・現お母さんの考えること。

容赦のない現実は、切々と人生を蝕み私たちは大人になった。

年をとるといろいろなことを思い出す。

 

小学校の頃、おばあちゃんと言えるような年齢の担任が、卒業アルバムかなんかの質問コーナーで怖いものはなんですか?との問いに「時間」と答えていた。

 

ずいぶん斜に構えた答えで、小学生であってもちょっと辟易した。

その担任があまり好きではなかったので、単純な「幽霊」とか「地震」という答えでなかったことが、かなりいやな気持ちにさせた。

 

ところが、40歳を前にすると一番怖いものは「時間」だと思っている。

 

先日、娘が私の母の旦那さん(便宜上おじいちゃんということになっている)から、壊れた腕時計をもらった。

衣類販売のチェーン店の偉い人なので、そこそこ見栄えのする時計だったけれども、修理するのがめんどうだそうで。

 

娘がそれを気に入って、いつも腕につけて「時間がない時間がない」と言っている。

三月うさぎみたいだなあと思ったけれど、きっと私の真似なんだろう。

 

私には時間がない。

 

正確には、大人には時間がない。

 

死に向かって疾走していく、その中で子供を育てお金を貯め、そして生きなくてはいけない。

もう私は人生の折り返し地点に立っている。

 

この前、お向かいのママ友が子供と一緒に我が家に遊びに来た時に、まだこの人たちは三年とか五年しか生きてないんだねという話をした。

「いいなー」と言った後に、彼女は「あ、やっぱいいわ。いい。もう人生やりなおすのめんどくさい。このまま死に向かいたい」と続けた。

 

かなり納得してしまった。

 

私は複雑な家庭環境で育ったため、あれをもう一度やるのもめんどうくさいし、もう一度出産するのもめんどうだ。

時間を巻き戻せる権利をくれると言われたら、辞退すると思う。

 

いろんな痛みを抱えてを乗り越えて、老いていく上で、やり直すという発想は野暮だ。

 

結果が出てしまっている。

私が選んだ、サボった、頑張った全てが今の生活でそれは私の人生で。

やり直したところで、人間性が一緒ならきっとここにいるだろう。

 

娘の、すあまみたいな寝顔を見ていて、親というものはこんなにも人間くさいものなのに、彼女は全てをゆだねて信用してくれてありがたいなと思った。

 

残りの人生を、彼女の幸せと自分の達成感のための仕事と、どのくらい費やせるのだろうか。

 

私は、妖怪渋谷系懐古ババアなので休憩時間によく小沢健二を聞く。

「愛し愛されて生きるのさ」が流れてきた時、泣いてしまった。

 

疲れてるなあ〜と思ったけど、まあ大人だから仕方がない。

大人は疲れる。

歌詞の中の「ふてくされてばかりの10代を過ぎ分別もついて年をとり」、を体感したんだなと思ったら泣けてきた。

 

大人として振る舞いながら疲れて、稼いで、消費して、固定資産税を払いに行く。

固定資産税を支払っている時に、容赦のない現実と大人の中身の気温差に背筋が寒くなったりする。

 

大義務をきちんと果たし、子供を産んで少子化に多少なりとも貢献し、仕事をして老いて死ぬ。

時間がいつか私を殺す。

 

想像では、そこにはただ広大に水が広がり、納税と労働の義務を果たして死んだ私は水に浸かりながら回想している。

ひたすらな無の中で、思い出すことは娘とFNS歌謡祭を見たことや、マクドナルドでジュースをこぼして恥をかいたことだったらいい。

 

こうして書いているものは、私が死んでもネットの海をずっとただよっていく。

 

時間がないのに、ブログを書いて憂さ晴らししている私は、また締め切りに追われ「時間がない時間がない」と言い続けるだろう。

 

小沢健二を知らない大人よりは、小沢健二を知っている大人だったので、こうしてちょっと感傷に浸れた。

 

横浜の小さな街の西友で、「今夜はブギーバック」の細長いシングルをお小遣いで買った中二の頃から、まだ30年もたっていない。