中年ですら思春期の自意識過剰を凌駕する、承認欲求があるのを知っている?
私は物を書くことを仕事にしている。
ちょっと狂っているとは思うが、趣味も物を書くことで、1日中頭の中でぐるぐるとなにか文章を組み立てようとしている。
人間というのは、絵でも工作でも手芸でも裁縫でも、文章でも一度「何かを作り上げて評価を得る」という成功体験をしてしまうともう止まらないものだと思う。
それがちょっとした手芸だとしても、SNSで「素敵ですね」と言われた日からもう評価を受けている成功体験は始まっていて、まさか自分でも想像がつかなかったが文章を書くことで報酬を得てしまうと脳内にドバドバと快楽のような物質が出てしまいやめられない。
しかも私は二次創作もしているので、ありがたいことに感想を頂けることもある。
その時、ふと自分が自分ではなくて成功している人間だと錯覚しているような気持ちになる。
おそらく何年もコラムを書いてお金をもらい、校正やテーマの選定のリサーチの技術も身につけたので、多少はクライアント側も使いやすい人材ではあると思う。
けれどもふと自分の姿を見た時に、ぼろぼろの部屋着に疲れ果てた顔をした白髪も目立ち始めたおばさんであることは確かで、そう言う時にとてもみじめな気持ちになる。
化粧をすればいい、美容院に行けばいい、という話ではなく積み重ねた苦労や背追い込んだ生活がそうさせるんだろうな。
そんなみすぼらしいおばさんでも、前述のとおり仕事と二次創作で文字を書いて重ねて売って報酬をもらってイベントに出て、なんとか人の形を保って生活している。
私にも多少ママ友と呼ばれるような人がいて、何人かは全く趣味がない。
米倉涼子の出るドラマは全部見るよ!とか、趣味といえばそのくらい。本人はとても魅力的な人だから、趣味を持った方がいいよなんて野暮なことは言わないんだけれど、「何かを作りたい」という欲がないんだそうだ。
彼女と私にどんな違いがあるのかはわからないけれど、何かを作る私がよくわからないと笑っていた。「本を作ったことがある」「自分の書いた文章で折本を作る」「子供と手芸をする」、それらをすごく不思議がられる。
世の中には私よりもっともっと器用な人が星の数ほどいて、子供の情操教育のためにも驚くほどの労力で子供ならではの作品を作ってほめて育てている人もいて。
その中で私は末端の手作りができるお母さんなんだけれど、その原動力はどこからくるのかなと思った。
ママ友は「不器用だからできないの〜」なんて言うけれど、そうだろうか。
私は「子供と手作りの作品、それも周りがちょっとびっくりするような褒めてくれるようなクオリティのもの」を作って、ちょっとちやほやされることで自分を保っていないと言えるだろうか。
承認欲求という言葉に置き換えるのはあまり好きではないのだけれど、アウトプットしたもので自分を高みにおきたいというのは、誰しも少しはあると思う。
そして、子供と一緒に何か作ることでかわいくできた「何か」はみんなが褒めてくれて、いいお母さんねという評価までもらえる。
複雑な生い立ちであるから、多少理想のお母さんは人よりもこりかたまっているのかなとは思う時もあるんだけれど…
子供のことを愛していて大事にしているのは確かだけれど、こういうのなんだろうなあと少しモヤモヤすることもあった。
子供を使って自分を褒めてもらいたいと簡単に表現すると、子供をアクセサリーにした浅はかな母親かもなあなんて落ち込むこともある。
だいたい、ママ友はそこまで深く物ごとを考えないと言った。
いっつもそんなにいろいろ考えてるの!?と驚かれた。
そうなのか、考えすぎか。
クリエイターぶって、思慮深くあることも一種の快感であることはわかってる。
大した作品は作っていないけれど、アウトプットしたものが形になる快感を知っている。
けれども容赦無くふりかかる生活や子育ての悩みで、キャパオーバーになって丸一日寝込んでしまうこともある。
結局こんなことの積み重ねがいわゆる人生なのだなと思うのだけれど、私はまだそこまで達観できない。
他のママ友は「それでもこの人生は自分が主人公だから、自分を諦められない」と言っていた。
それはとても腑に落ちた言葉で、ああやはりこの人生でできる限りの何かを作り出していかないと、脳に酸素が回らなくなって死んでしまうなと思った。
これからも器用に「何かを子供と一緒に作るお母さん」というスタンスを作り上げて、イベントの時にはちょっと目立ちたいと思うだろうな。
We wants to feel recognized at work.
という言い方があって、「誰もが認められたいものだ」という意味なのだけれど、私は認められたいんだろう。
当たり前のことだけれど、あまりにも恥ずかしい。
それをSNSでアピールするのもとても恥ずかしいが、でも出来上がったものを披露してはコメントをもらっているのもそういうことだろう。
きっと心の闇(笑)みたいなものもあるんだろうけれど、過去はどうでもいい。
これからだ。あと何十年私はアウトプットできるおばさんでいられるか。
自意識過剰な少し器用なだけのおばさんは、あと何冊同人誌を出せるだろう。
あとどのくらいコラムを書いてお金をもらえるだろう。
ふとたちどまって、こういうことを考える日がある。
今日がまさにその日で、そういう日はたくさん映画を見る。
インプットをして心を落ち着ける。
本を読んで自分の才能のなさに打ちのめされて、「でもまあ、命があって家族があって、仕事ができるだけいいや」というところまで自分を持ち上げる。
そういう作業やメンテナンスが必要なおばさんも、世の中にたくさんいるだろうけれど、なかなか出会えるものではなくて。
そして今日も私はSNSにしょうもない問いかけをして、少しのお返事を好意で頂けて嬉しくなる。
願わくば、今日も何か一つでも自分が納得できるものを創作して「ちょっと器用なおばさん」として、自身の根幹が揺らぐことがありませんように。
私が作る不安定な「何か」が、いつか来る中年の危機を救うお膳立てとして役立ちますように。